『幼少時の強印象』
幼少の頃、父の書斎で牧野富太郎の植物図鑑を隠れて見るのが好きだった。
父は学こそなかったが書籍を豊富に所有しており、日々私に多様面にわたって教育してくれた。
しかしながら父は私が書斎に入ることをどういうわけか非常に嫌がった。
今思うと、私が父の書斎に入るのを禁じていたのは、父の知識の基が書籍にあったことを秘密にしておきたかったからに違いない。
男とはそういうものであると、今だから解る。
父に隠れてこっそり見た牧野富太郎の植物図鑑は、当時絵本しか手にしたことがなかった私にとって、まるで異次元の世界であった。
『牧野富太郎 植物図鑑の魅力』
まず惹かれたのは、植物の細密図だった。
図鑑の植物はそれこそ手で掴めそうなほど、緻密に描かれていた。
ほとんど黒一色の図鑑であったが、数十頁の中に1枚、極彩色の絵が挿入されてあったことを記憶する。
子供の私はそれに衝撃を受けた。
私は当時、文字をまったく読めなかったがその極彩色の絵にどれだけ魅了されたことか。50年経った今でも、鮮明に覚えている。
『その後も少しは気に留めていた牧野富太郎の植物図鑑』
中学、高校と進学するにつれ、牧野富太郎の名前が教科書によく出てきたのが嬉しかった。
彼の人となりは知っていた(つもりだった)ので、自分は同級生よりも前から牧野富太郎を知っているという誇らしさがあった。
大学に進学し、経済学という植物とは畑違いの分野を専攻したときでも、私の頭の片隅には牧野富太郎の植物図鑑があった。
幼い頃のインパクトは何十年も続くのだ。
大学生になった私は 図書室や古本屋へ行っては牧野富太郎の植物図鑑を手に取って見たものだった。
しかし、植物図鑑を手にしたものの、いつかきっと自分が手に入れたその時にじっくり読もうという思いがあったので、敢えてあまり中を読まないようにしていたし、実際、牧野富太郎の植物図鑑は貧乏学生が手に入れるには大変高額であった。
『父の年齢になり、父の気持ちがわかった今』
私は、機械を相手にする世界の社会人になった。
植物とは全くかけ離れた世界で働き始めた私は、ある日、自分より30歳は年上の職人と仕事をする機会があった。
彼との話は、なぜか常に植物のことであった。
歩いているとき、車に乗っているとき、電車に乗っているとき。
彼は、私に「あの木は〇〇」「この草は〇〇」「この花は〇〇」と、教えてくれた。
彼との会話はなぜかいつも植物のことだった。
私は、松や杉、栗など、木の名称こそ知っていたが、自分の目の前にある木がいったいどの木に相当するか、全くわからなかった。
恥ずかしながら花の名前も全くわからなかった。
私は木を観るのも、花を観るのも好きであったにもかかわらず、社会人になって「自分が何の知識もないことを教えてくれた」のは、地下足袋を履いた老人だった。
「カジトラ君、君は大学を出ているのに何故、植物のことを知らないの?」と、顔に年輪が入った職人は笑った。
昔であれば、植物の知識は親から子へ、野山で自然に教育されていたことであろう。
しかし、物知りだと思っていた私の父は、今から思えばそのような知識はなかったのだ。
それ故、牧野富太郎の植物図鑑で、私に知ったかぶりをして威厳を保ちたかったのであろう。
高度成長期に、家族のために尽くしてくれた父を、悼む。
まとめ『今からでも遅くないので牧野富太郎の植物図鑑を手に入れたい』
私は、父が旅立った年齢になった。
そして思い出したのが、牧野富太郎の植物図鑑であった。
大学生の時、神田の古本屋街で、定年退職したら ゆっくり鑑ようと思っていた植物図鑑。
高価な植物図鑑は、定年退職をする頃にはきっと入れているだろうと思い、大学生の私は手に入れることを何十年も先送りにしてきたのだ。
しかし、50年が経ってしまった今でも、私は牧野富太郎の植物図鑑を所持していない。
父の書斎にあった牧野富太郎の植物図鑑は、いつのまにか消えており、父から譲ってもらわなかった事を私は生涯悔いている。
遅くとも、中学生の頃に牧野富太郎の植物図鑑を手にしていれば、私の人生は変わっていたかもしれないと思ってしまう(どこかで私はそう思いたいのかもしれない。)
ただ、牧野富太郎の図鑑を手にしていれば、日々の暮らしに、より彩りが加えられていたことのではないか。と、思うのだ。
花畑を歩きながら、並木道をドライブしながら、植物のことがわかったらどれだけ嬉しいだろうと思うのだ。
牧野富太郎の植物図鑑のことを思い出した今、君たちに伝えたいことは、「手に入れたいと思ったものは、迷わず手に入れよ」である。
余談であるが、最近有名なヴォイニッチ手稿を、もの好きの素人が同じ文字列を探し出し、ほんの1、2時間解読を試みてみたが、当然読むことができなかった。
小学生の時、父の書斎で遭遇した牧野富太郎の図鑑は、今の私のヴォイニッチ手稿と同じだったのだ。
今からでも遅くない。
余生に花を添える牧野富太郎の植物図鑑を、私は明日にでも古本屋へ探しにゆこうと思う。
[関連記事]