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蒙古タンメン中本への思い|45年前の中本(ちゅんぽん)を振り返る

nakamoto

もう40年以上も前になる。

とにかく恐ろしく辛い、ラーメンだった。

きょうは、私が上板橋にある高校に入学してから卒業するまでの3年間通い続けた「辛いラーメン屋」について、お話したいと思う。

わたしが通い続けたラーメン屋は、「中本」と言った。

そのラーメン屋はたしか、上板橋駅の南口、線路沿いの一軒家にあったと記憶する。

当時の日本は、おもに醤油ラーメンが主流で、「激辛」という単語が存在しない時代だった。

中本の茶色く辛いラーメンは、高校生にとって大変センセーショナルだった。

「ちゅんぽん行こうぜ」

中本は、わたしの高校のテニス部員が通うラーメン屋だったのだ。

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ちゅんぽん

私たちは、中本のことを「ちゅんぽん」と、ひそかに呼んでいた。

ちゅんぽんは、辛いラーメンが1つしかなかったように思う。

そして、当時の醤油ラーメンより値段が高かったと記憶しているが、それでも、われわれテニス部は、足繁くちゅんぽん(中本)へ通う。

席につくと、おかみさんが熱々の赤いラーメンを運んでくる。

おやじさんがシャキシャキに炒めた野菜がのっているそれは、頭がカチ割られるほど辛くて旨かった。

そしてのちに、「樺太丼(からふとどん)」という白い飯に辛い麻婆豆腐をのせた丼物がメニューに加わった。

わたしが高校時代にちゅんぽん(中本)で食べたものは、その2品のみであった。

中本のおやじさんと、おかみさんについて

歳をとった私は 新しいことを覚えるのが難しくなってしまったが、40年以上も前の記憶は鮮明だ。

上板橋のちゅんぽんは、せまいラーメン屋で、店を入って左側に厨房とカウンター6人席、右側にテーブルが2つ。

10人ほど入れば、満席ともなる、小ぢんまりとした店だった。

ちゅんぽんは、おじさんとおばさんの2人で営んでいたと思う。

わたしは今でも2人の顔を、覚えている。

面長のおじさんは、ポマードを付けたオールバック。おかみさんは、色白の丸顔だった。

2人とも愛想が良いというわけではなかったが、悪くもなかった。

辛いラーメンを、淡々と、そして丁寧に作っていた。

蒙古タンメン中本との再会

高校を卒業した私は、上板橋へ行くこともなくなった。

それはたまたま偶然だった。

20年ほど前のある日、西新宿を歩いていると、ある看板に出合う。

「蒙古タンメン中本」

特別な思いもなく、10人ほど待っている客の後ろに並び、店に入る。

辛い香りが漂う店内、壁に貼られている「蒙古」「樺太」という文字を見るうちに、記憶の”何か”が結びついてきた。

まさか、あの「ちゅんぽん」なのか。

辛いラーメン。蒙古。樺太。

私は、混乱した。

上板橋にあった一軒家のラーメン屋が、なぜここにあるのか。

1時間ほど並んで食べた「蒙古タンメン」は、わたしが記憶している「ちゅんぽん」の味ではなかった。

ラーメンの上にのっている野菜の炒め具合がまず違ったし(ちゅんぽんはシャキシャキした野菜炒めがのっていた)、麺もこんなに太くなかったはずだ。

そしてスープの色が、こんなに赤くない。ちゅんぽんのスープはもっと茶色だったはずだ。

しかし、どこか懐かしさを感じる辛いラーメンを、私はスープまで飲み干した。

終わりに:継承することへの敬意

青春時代、「ちゅんぽん」で辛さを鍛えられた私は、辛い物好きの老人になっていた。

のちに私は蒙古タンメン中本が、上板橋のちゅんぽんから受け継がれたことを知る。

正直に言うと、おやじさんが作ってくれた茶色い辛いラーメンと、今の蒙古タンメンは、違う。

しかし、私は嬉しく思うのだ。

45年前の高校生が食べたあの衝撃的な味、旨いラーメンが、人の手によって継承されているからだ。

その情熱を、誰が物言い出来ようか。

それだけ「ちゅんぽん」は、愛されるラーメンだったのだ。

中本の味に惚れ込んだ常連客が継承したという「蒙古タンメン中本」。

その思いに深い敬意と感謝しかない。

わたしはこれからも、蒙古タンメン中本へ通おうとおもう。

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夫のコラム街のこと食のこと
この記事を書いた人
カジトラ

関東在住の専業主婦です。
夫と二人暮らし。
2023年の春、海に近い地域に移住しました。

家族の介護、某シンクタンクで馬車馬のように働き詰めだった日々に区切りをつけ、現在は農学博士 木嶋利男氏が提案するコンパニオンプランツ栽培で野菜を育てています。

文明の利器を取り入れつつも、古き良きモノ・慣習を大事にしながら暮らしてゆくことを目指しています。

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